新潮文庫が好きである。
本を買おうと思った時、本屋さんでは最初に新潮文庫の棚を目指す。
読みたい本が決まっている時は、その本を探しにいくが、特に読みたいものが決まっているわけではなく、新しい本との出会いを求めている時の話である。
なぜかというと、なぜ新潮文庫の棚かというと、単純に新潮文庫が好きだからである。
そもそも文庫本好きである
文庫本が好きな理由はそのサイズだ。
一般的に、本は大きくてハードカバーの単行本として発売される。その後数年たって文庫本として発売される。そうすることで、出版社や書店としては、同じ内容の本で、2度の新発売の機会を作ることができる。
まず単行本が販売される。
単行本は、本のサイズや紙質、レイアウトが自由に選べるので、デザインを含めて、本の世界観を大事にできる。著者や出版社としては気合が入っていると思う。まず、全力で世界観を作った本を売りたいのはよくわかる。そして、単行本のほうが高く売れる。
そのあと、各出版社がもつ文庫本シリーズとして売り出される。
こちらは、サイズ、装丁などがシリーズとして決まっている。書店に並ぶ際に見えるカバーは自由にデザインされているが、カバーを外した中身の表紙や本文は各文庫オリジナルのフォーマットにおさまっている。
まず、私はこの文庫本のサイズが好きなのである。主に通勤電車内で本を読むことになるのだが、単行本は重く大きいため、持ち運びや読むのに苦労する。
しかし、文庫本は105mm*151mmとコンパクトで、片手で持って、片手でめくりながら読むことができる。
だから私は単行本ではなく文庫本で読みたい。これは多くの方に賛同いただけることではないだろうか。
ただこれは新潮文庫に限ったことではなく、各社の文庫本に共通したことである。
なぜ「新潮文庫」なのか?
次は「なぜ新潮文庫なのか?」という話をしたい。
きっかけは、父から譲り受けた「ローマ人の物語」。塩野七生さんの大作である。父は田舎ぐらしで、自宅で読書をする人だったので、単行本が基本だった。譲り受けた「ローマ人の物語」ももちろん単行本で、各巻はなかなか分厚い。しかも全15巻もある。
これをほとんど電車のなかで読んだ。ほんとうに大変だった。でも、この大変なこの時に気付いたことがある。それはカバーを外した方がハンドリングしやすく、読みやすいということだ。
そして、カバーを外して出てきた本体の表紙が下の写真だ。そこはかとなくローマっぽい。そしてかっこいい。
もちろん、カバーを外せば違う本体の表紙が出てくることは知っていたが、「ローマ人の物語」のカバーを外した本体の装丁がすごくかっこ良くて衝撃を受けた。このことに気付いた5巻ぐらいからは、カバーを外してはだかのままで読んだ。
この経験以降、本のカバーを外した状態が気になり、本を買うたびにカバーを外して確認するようになった。
そして、カバーを外すようになって改めて思った。単行本はカバーを外して本体の装丁も見るべきだと。そこにもデザインーの想いが込められている。見ないのはもったいない。
一方、文庫本はそうではない。
文庫本はカバーこそ本によって自由にデザインされているが、中身(本体)は各社の文庫本シリーズでデザインが統一されていた。
そして、カバーを外した表紙をいろいろ見続けているうちに、新潮文庫のデザインが一番すきになった。
3重線の枠に囲まれて、タイトルなどのテキストと葡萄の絵が描かれている。
そのデザインに惹かれた。具体的な理由はない。なんとなくいい。
人にはそれぞれ、「これぞ本物」と思うデザインがある気がする。私の場合は、コップといえば「イッタラ カルティオ」、スニーカーといえば「ニューバランス M1300」など。そこに新たに本といえば「新潮文庫」というのが仲間入りした。
このデザインに魅了されてからは、本はできるだけ新潮文庫で買うようになった。
そして、カバーを外して(デザインされた人には申し訳ないが)、カバンに入れて持ち歩き、いろんなところで読書をしている。ジーンズのポケットに入れて持ち出すのも好きだ。
新潮文庫を取り出したとき、その表紙を見るたびにかっこいいと思える。
もちろん、新潮社以外から出版されている本が新潮文庫になるはずはないので、その場合は、他の出版社の文庫本を探すことになる。
数十年前になるだろうか新潮文庫の「想像力と数百円」というキャッチコピーが好きだった。糸井重里さんの傑作コピーだ。
いま思うと、この時から新潮文庫とは特別な関係だったのかもしれない。